ゴールデンカムイ登場人物のモデルを探るシリーズ。
今回は北海道の牧場主で、アザラシ皮の服を巡ってもめた、エディー・ダンのモデルについて。
エディー・ダンのモデルは、北海道開拓の御雇外国人として来日し、最期は駐日米国公使まで勤めたエドウィン・ダンで間違いないでしょう。
エドウィン・ダンの名はあまり知られていませんが、日本人妻を迎え、チーズ・バターの本格生産や良馬の育成、駐日外交官として日本に大きく貢献し、青山墓地に埋葬された親日家のアメリカ人です。
ゴールデンカムイではファンキーで抜け目ない感じのオッサンでしたが、本物はいったいどんな感じの人だったのでしょうか?
まずはエディー・ダンのモデルが、エドウィン・ダンだと思った理由です。
エディー・ダンのモデルがエドウィン・ダンだと思った理由
理由その1:名前がソックリそのもの
ゴールデンカムイに登場のエディー・ダンと、実在のエドウィン・ダン。
みたまんまですが、名前がソックリ。
ちなみに実在のエドウィン・ダンのアダ名は、エディー。
理由その2:牧場を運営していた
ゴールデンカムイでは、エディー・ダンが牧場の経営者として登場しますね。
実在のエドウィン・ダンも牧場の設計と運営を担当しました。これは開拓使(明治政府が主導した官庁)の仕事の一環です。
開拓使の仕事を退いてからは、エドウィン・ダンの弟子達が牧場を引き継いでいます。
理由その3:エゾオオカミの退治方法が同じ
ストリキニーネという毒餌でオオカミを退治した。という話が本編で出てきます。
これは実話から来ています。
あるときオオカミの群れにダンの運営する牧場が襲われて、日ごとに一区画ずつ仔馬が消えていく惨事がおきました。仔馬がスッカリ消えると、こんどは牝馬が骨になっていきます。
たまりかねたダンは、ストリキニーネという毒餌を屍肉にまぜ、襲ってくるオオカミを全滅させました。
この件があって、エドウィン・ダンがオオカミの全滅に一役買ったなどと言われますが、そもそもの原因は、オオカミの餌であるエゾシカを角と皮のために取りまくったことが原因です。
エドウィン・ダンがモデルだと確信できたところで、彼の興味深い生涯を見てみましょう。
エドウィン・ダンの生涯
はじめは牧畜産の専門家として来日
開拓使顧問をしていたホーレス・ケプロン(クラーク博士の前任)の息子と交友があり、農畜産の技術指導者として推挙されたことが始まりです。
エドウィン・ダンの任務は、北海道で農畜産の基礎となる技術指導をし、北海道の開発を助けることでした。彼は人生を掛けて仕事に取り組みます。
おつるさんとの結婚
エドウィン・ダンの人生を決定付けた「おつるさん」との結婚があります。おつるさんは聡明な美しい女性で、エドウィン・ダンが日本で生涯を過ごすキッカケになりました。
残念ながら、おつるさんは不治の病だった結核に侵され、28歳の若さでこの世を去ります。公使まで上り詰めた夫に従い社交界デビューし、皇太后様に舞踏会に誘われるほどの人気者になりました。
ただし、日本の島国根性と偏狭な考えから、おつるさんは最期まで国籍も結婚も認められないまま亡くなっています。
開拓使が農商務省になってヤリガイを失う
開拓使は10年計画のもと、かなりの国家予算をつぎ込んだ一大事業でした。開拓使をまとめる黒田清隆の政界での立場が弱まることにより、開拓使の事業も終息します。
農商務省に管轄が移り、縮小された仕事に青春とヤリガイを失います。農商務省との契約を打ち切って、ダンは家族を連れて北海道を去りました。
二等書記官として再び来日
仕事を辞したダンは、娘ヘレンを連れて、生まれ育ったオハイオの実家に戻ります。
ヘレンを実家に預け、家族で暮らせる土地を探しますが、ダンの心にはいつも日本があります。そんな折り、地元の親友アレンの紹介で、二等書記官として再び日本に赴任する話が舞い込みます。
外交官の素人であったダンは悩みますが、おつるさんへや日本への想いからこの話を受け、再び日本に外交官として戻ってくるのでした。
駐日米国公使となる
偏見のない平等な姿勢が評価され、ダンは順調に出世を重ねます。書記官となり代理公使まで勤めると、本国の政変により、ついに公使にまで上り詰めます。
日清戦争当時の駐日米国公使は、このエドウィン・ダンとなります。
民間会社でも活躍
スタンダード石油会社が設立したインターナショナル石油会社の直江津支店の支配人を勤め、その後は、三菱造船でサルベージ事業に従事しました。
青山墓地に骨を埋める
最期はおつるさんと、後妻の埋まっている青山墓地に骨を埋めました。人生の殆どを日本で過ごしたエドウィン・ダンは、ついにオハイオ州の実家にもどることなく、日本に骨を埋めたのでした。
エドウィン・ダンの功績
チーズ・バターを本格的に始めた
日本での本格的なチーズ作りは、エドウィン・ダンが七重官園で指導していたときに、チーズ・バターを試作したのが始まりと言われています。
チーズ・バター等の加工技術だけでなく、酪農技術の技術指導にも尽力し、北海道の基礎を築きました。
牧場の開設・良馬の生産
牧場の開設に必要な仕事を自ら率先してこなしていきます。牧場が出来上がってからは、道産子や南部馬と、米国の優秀なサラブレッドを輸入し、良馬の生産を始めます。
ダンが開設した新冠牧場は、その後も馬産の拠点として発展していきます。
ダンは品種改良のための馬の去勢術の実演なども行い、その後その馬の去勢術は、全国に広がりを見せました。
日清戦争で日本のサポート
昇進したエドウィン・ダンは、日清戦争時の駐日米国公使を務めます。彼は日本のために積極的に暗号を解読、その情報を日本の外務省に流すなど、日本が有利になるよう協力をおしみませんでした。外務大臣、陸奥宗光は自伝にてダンへの感謝を綴っています。
まとめ
エディー・ダンのモデル、エドウィン・ダンについてでした。
明治維新後の変革期って、数百人にのぼる御雇外国人が、技術指導のため来日していたんですね。エドウィン・ダンと同時期に、開拓使の顧問として就任したクラーク博士などもいます。
日本政府にも、大西郷、大久保利通、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、井上馨、榎本武揚など大人物が残っている時代でした。
あまり詳しく調べたことなかったんですが、このあたり面白い時期ですね。
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